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その他 2020.02.08

(日本語) 伊香保温泉 福一の沿革と歴史

(日本語)

伊香保温泉 福一 小史

1. 福田家(福一館主)の先祖

伊香保の石段街は安土桃山時代の天正4年(1576)に、当時この地方を領有していた武田勝頼の命により、勝頼の家臣達が造ったと言われております。 前年の長篠の合戦で傷ついた兵士を温泉で療養させることが目的だったと思われます。 この時代の武田家の直臣(じきしん)とその家来達の関係は、江戸時代になると大屋(おおや)と譜代(ふだい)門屋(かどや)という身分制度になり、大屋は分家も含めて14軒になって、伊香保の土地と温泉の権利を占有しておりました。

伊香保は江戸時代から大正9年に掛けて何度も町の大半が焼失するような大火に遭っており、福一の亭主である福田家の先祖に関する文書もあまり残っておりませんので詳細は不明ですが、福田家は平将門(たいらのまさかど)を滅ぼしたことで知られる藤原秀郷(ひでさと)の子孫、福田加賀守政種(まさたね)から出たと云われております。

政種は戦国時代、関東管領上杉氏に属し倉賀野城を守って北条勢や武田勢と戦った「倉賀野十六騎」の一員でした。 管領上杉憲政(のりまさ)が北条氏康(うじやす)に攻められ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに退いた後、倉賀野十六騎は武田信玄に属しました。

天正10年(1582)に武田家が滅亡した後、倉賀野十六騎の頭領であった金井秀景は北条に属し小田原城と運命を共にしましたが、政種は白井城(渋川市白井)の長尾輝景(てるかげ)の家臣となり、伊香保に住み着いたと思われます。

天正4年に石段街を造った武田勝頼の家臣達の中に福田の名は有りませんが、江戸時代初期の寛永6年(1629)には既に大屋14軒の内に第4代福田五左衛門が名を列ねております。

寛永年間より天明年間(1780頃)までの当主は代々五左衛門を名乗り、寛政初頭(1790頃)には徳之丞、寛政末(1800頃)から天保初頭(1830頃)まで2代に渉り金右衛門、その後幕末までは金左衛門と名乗り、明治初年の当主は金七郎と名乗っておりました。

2. 明治以後の福一

福田家第13代の当主金七郎は江戸末期の文化10年(1813)に父市左衛門(10代金右衛門) の長男として生まれ、市郎忠英(ただひで)と名付けられましたが、若い頃から江戸へ出て旗本小笠原若狭守の家臣となりました。

小笠原家と福田家は戦国時代、共に武田信玄の家来だったという縁から仕えたものと思われます。

福田家を継いでいた従弟の冨三郎(12代金左衛門)が慶応4年(1868)閏4月に没したため、市郎はその年8月(9月に明治と改元)に職を辞して伊香保に帰り、父の家を継いで福田金七郎と名乗りました。 代々営んでいた宿屋の名は当時は「福市楼(ふくいちろう)」と申しました。   市郎の息子重七郎は明治11年に家督を譲られて福田家の第14代当主となり、後に改名して輿重(よじゅう)と名乗りました。

輿重はそれまで千明仁泉亭さんの下の土地に在った旅館を現在地に移し、新しい旅館の名を「諧暢楼」と名付けました。

明治22年に伊香保町会が発足した際に輿重は町会議員に選出され、24年には第3代町長に選出されて2期4年勤めました。

大正14年、輿重は長男正實(まさざね)に家督を譲って隠居し、同年4月に79歳で没しました。

福田家第15代を継いだ正實は二代目「輿重」を名乗り、大正9年の伊香保大火で全焼し、翌年に新築した宿を「福一楼」と改名致しました。   大正末期から昭和初期にかけての伊香保には多くの文人墨客が訪れておりますが、その内、横山大観、斎藤茂吉、土屋文明、宇野千代、川端康成、三宅やす子、棟方志功等は福一に宿泊されています。 横山大観が伊香保に宿泊された時に、伊香保からは見える筈のない富士山の絵ばかり描いておられたと、現社長の伯母がまだ子供だった当時のことを語っております。

太平洋戦争中の昭和19年10月に正實が死去しましたが、長男章(あきら)は軍医となってボルネオ島へ、次男實(みのる)は学徒出陣で北支(中国北部)へ出征中でしたので、家業は正實の妻カンが引き継ぐこととなりました。

戦後昭和20年10月には旅館業を再開しましたが、章は医者になり、實は学業に戻りましたので、引き続きカンが女将として采配を振るいました。  

3. 株式会社設立後の福一

昭和23年に實が立教大学を卒業し、第16代として家業を継ぐことになり、25年5月25日に實が代表取締役となって「株式会社福一旅館」が発足致しました。

實は昭和26年3月に、当時水上温泉で旅館「望岳荘(ぼうがくそう)」を経営しておりました牧野正之甫(まきのまさのすけ)の三女幸子と結婚致しました。

正之甫の実家は江戸時代から上州群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町権田)で造り酒屋を営んでおり、現在まで同地で「牧野酒造」として17代続いております。 實の長男朋英(ともひで)は昭和49年に立教大学を卒業後、西ドイツ放送協会の東京支局に勤務しておりましたが、昭和55年4月に職を辞し福一に入社、翌年9月常務取締役に就任致しました。

昭和40年代から日本でも車社会が進んでおりましたが、伊香保は榛名山の斜面に開けた町で、石段街で有名な程ですから車の入りにくい土地でした。 石段街に有った何軒かの旅館は石段街を離れ、広い駐車場を作れる土地に移転しておられましたが、朋英は現在の場所で何とか大型バスを乗り入れられるにしたいと考え、 以前に購入していた川沿いの土地を活用して現在の「万葉館」を建てることとし、昭和57年9月に着工、翌年11月に落成、オープン致しました。

この建物は昭和58年の「ホテル旅館」の秀作として建築誌に掲載されました。平成3年には昭和40年代に建てた「千樹館」を取り壊し新築致しました。

これを機に同年7月、朋英が第17代として社長に就任し、實が会長となりました。 同年10月には社名を「株式会社 福一」に変更致しました。

平成18年12月に万葉館7階の大宴会場を改装し、中宴会場、小宴会場各4箇所とお食事処「旬楽(しゅんらく)」を新設致しました。

平成20年1月には万葉館1・2階を「奥伊香保旅邸 諧暢楼(かいちょうろう)」とし、旅館㏌旅館としてオープン、併せて万葉館2階に「SPAやわらぎ」をオープン致しました。

「諧暢楼(かいちょうろう)」は約140年前に朋英の曽祖父、輿重(よじゅう)が初めて自らの旅館を建築した際に付けた名前で、諧は「やわらぎ」、暢は「のびやかさ」を意味しており、お泊りのお客様にゆったり、のんびりと過ごして頂きたいとの気持ちから名付けたものです。

朋英もこの輿重の追い求めたものを現代版にやき直して、お客様に旅先の邸宅のようにお過ごし頂けるようにと、「奥伊香保 旅邸 諧暢楼」で究極のリラクゼーションを目指しております。

伊香保温泉 福一 沿革

年代(西暦)

沿革 天正4年 (1576)     武田勝頼の家臣7名が伊香保の石段街を創建

天正10年頃 (1582頃)  福田家初代 加賀守(かがのかみ)政種(まさたね)伊香保に入植 第2代及び第3代の生没年は不明

寛永6年 (1629)     第4代福田五左衛門、大屋14軒に名を連ねる

天明3年頃まで(1783)   第8代まで代々「五左衛門」を名乗る

寛政元年頃 (1789頃)   第9代徳之丞

寛政12年頃(1800頃)   第10代金右衛門

文政8年頃(1825頃)    第11代金右衛門

元治元年頃(1864頃)    第12代金左衛門

慶応4年(1868)      第13代金七郎

明治11年(1878)     第14代重七郎

明治10年代  重七郎、輿重と改名、旅館「諧暢楼(かいちょうろう)」を新築

大正9年(1921)    輿重の長男正實(まさざね)、「福一楼」を新築

大正14年4月(1925)  輿重、79歳で没、正實相続し2代目輿重(第15代)を名乗る

昭和23年8月(1948)  正實の次男實(みのる)が家業を継ぐ(第16代)

昭和25年5月(1950)  實が代表取締役となり「株式会社福一旅館」が発足

昭和55年4月(1980)  實の長男朋英(ともひで)、福一に入社

昭和58年11月(1983)「万葉館」オープン

平成3年7月(1991)   朋英が社長就任(第17代)「株式会社 福一」に社名変更 「千樹館」オープン

平成20年1月(2008)  「奥伊香保 旅邸 諧暢楼(かいちょうろう)」及び「SPA やわらぎ」オープン

平成22年(2010)    株式会社設立60周年

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